栄養学の創始者といえば、佐伯矩(さいきただす)ですが、日本では意外と知られていま
せん。今日我々は食の栄養学的知識を、自明の理と捉えがちです。しかし栄養学がどうい
った経緯で生まれたかということについて、知っている人はほとんどいません。この経緯
を知らないから、間違った栄養学や食の知識に騙される人がたくさんいるのです。
マクロビオティックは桜沢如一(さくらざわゆきかず)が創始した宗教ですが、食の基本的な考え方は石塚左玄の食養論に由来します。東城百合子の玄米菜食もまた、同じ食養論からの派生です。石塚左玄は栄養学が生まれる前の時代の人でしたし、研究者ではなく臨床家でしたから、その理論もまた単なる彼の主観からなる仮説に過ぎませんでした。研究なり実証なりを経て洗練された理論を構築する必要が生まれ、栄養学が誕生したのですが、話はそんなに単純ではありません。
栄養学の元となる知識は医学研究から生まれてきました。例えばフォイトとペッテンコーファーは、人間が一日に必要な栄養摂取量をカロリーベースで確定するための実験を行い、人の一日当たりのエネルギー所要量を求めました。なぜこの実験が行われたのかというと、当時のヨーロッパの状況、特に戦争に大きく関係していました。
フォイトの活躍した19世紀は、戦争での主力兵器は火器でした。銃や大砲を用いた戦争が普及すると、それまでの平地に陣取って合戦形式で勝敗を決するような戦いから、拠点防衛による戦闘がメインになりました。戦争は長期化し、籠城戦が長引く中で、食料配給の問題が起こるようになりました。限られた食料を有効に利用するために、人間の一日最低エネルギー摂取量を計算する必要に迫られたのです。
また、航海技術の発展や蒸気機関の発明によって、軍艦の長期航海による海戦も盛んになりました。長期航海での船員の健康管理の観点から、壊血病の対応に迫られ、欠乏症の研究が勧められました。日本や東南アジアの軍隊では脚気が主要な問題となっていましたから、こちらの面でも栄養欠乏の研究は進みました。
栄養欠乏の研究は生化学の発展が大きく寄与していました。しかしながら、生化学や生理学はまた、当時コールタールから合成医薬品を作り始めて急速に発展していた製薬会社が管理していました。そのため栄養学的に重大な発見や成果は、製薬会社の利益のために利用されるようになりました。
20世紀初頭の日本はまだ、諸外国と比べ発展が遅れ、また裕福ではなかったため外国の薬を導入する余裕はありませんでした。しかしながら、欠乏症は薬に頼らなくても必要な栄養素を多く含む食品を摂取するだけで改善します。この事に気づいて食と栄養との関係を研究し、その知識を広く一般に普及させようと考えたのが、佐伯矩だったというわけです。
残念ながら、佐伯の考えは欧米の大手製薬会社にとっては非常に不都合なものでした。そのため彼は栄養学の世界から追放されてしまいます。そうして製薬業界は栄養学を乗っ取り、今に至るというわけです。